今日からしばらくピアノの「ハイフィンガー奏法」とやらを検証してみたいと思います。この呼び名はピアニストの中村紘子さんが著書「チャイコフスキーコンクール」で一躍有名にしたもので、ピアノを弾かない人でもご存じの方も多いのではないでしょうか。


手首を鍵盤に対して水平を保ち、指を鎌首のように持ち上げ、文字どおりそのまま鍵盤に対して叩きつけるように弾く奏法のことですが、中学3年(1959年)の時、日本音楽コンクール第1位特賞を獲得、翌1960年にNHK交響楽団の世界ツアーのソリストとして帯同した彼女が18才(1962年)の時ジュリアード音楽院に留学します。彼女はロジーナ・レヴィン女史に師事するわけですが、初めてのレッスンでショパンを弾き、その音楽性は大いに賞賛されたものの、奏法そのものは、「一からやり直しましょうね」と全否定されたのでありました。来る日も来る日もハノンよりもさらに退屈なドフナーニのエチュードで指の上げ下げをやらされたのでありました。奏法の修正とは言葉で書くと簡単なようですが、3才から15年以上もかけて「ものにした」奏法がそうやすやすと修正できるわけでなく、宿舎のベッドで壁をぼんやり見つめる日々が続いたそうです。それほどひどい目にあったこのハイフィンガー奏法について、中村紘子さんの師である井口愛子(1910-1984)さんの晩年の述懐を先ほどの著書「チャイコフスキーコンクール」の中で紹介しています。



日本では何故ノンレガート奏法(ハイフィンガー奏法)が行われていたのか。これは兄の基成氏に先立たれた晩年の井口愛子先生自身の述懐として私には胸迫る思いの言葉ではあるが、要するに「不運」の成せるわざとしか言いようがない。昭和の初めに多感な青春時代を送る運命となった先輩たちの不運、なまの良い音楽に出会う機会も少なかった時代の不運、そして、なんといっても戦争というもので修業を十分に達成できなかったあの時代のすべての人々の不運・・・・。(1989年4月16版 94、95頁)



以上ですが、この「チャイコフスキーコンクール」の本を読んだのが1989年ですのでちょうど20年前ですが、私はこの井口愛子さんの述懐に確かに心情的には共感を覚えるものの、本当に当時日本にはハイフィンガー奏法しかなかったのでしょうか。これが私が感じた大いなる疑問でした。2003年ですが岡田暁生さんが春秋社から「ピアノを弾く身体」という本をまとめております。そのなかで大地宏子(1972ー)さんが「鍵盤を『打つ』指-ハイフィンガー奏法と近代日本の精神風土」という章を担当されているのですが、この中で先ほどの私の疑問に答える様々な資料を提供してくれています。この章は大地さんが神戸大学大学院総合人間科学研究科の博士後期課程の博士論文「ハイフィンガー奏法による日本のピアノ教育の系譜」が下地になっているもの思われます。



当時の資料、証言を紹介するまえに以下の3名のピアニストをまず紹介しなければなりません。パウル・ショルツ(1899-1944)、高折宮次(1893ー1963))、井口基成(1908ー1983)。



まずパウル・ショルツですが、大正2年(1913)から大正11年(1922)まで東京音楽学校のピアノ教官として高折宮次など多くのピアニストを育てたのですが、中村紘子さんによりますと来日したのはショルツ24才の時でベルリン高等音楽院を卒業したばかりで、恐らく未完成な、しかもあまり音楽的才能のない音楽家だったと思われると評しています。高折宮次はそのショルツの弟子で大正初期から昭和初期(1915ー1946)まで東京音楽学校のピアノ科教授として当時の音楽界に君臨します。井口基成はその高折の高弟で戦後の焼け跡の中で吉田秀和、齋藤秀雄らと「子供のための音楽教室」を開設し、この1期生の小沢征爾、中村紘子らを初めとする昭和の主立った音楽家を育てる。後にこの音楽教室は桐朋学園創設の母体となるのですが、1955年井口は桐朋学園短期大学の初代学長に就任しています。